見知らぬ国。
はじめての地。
されど、世界的に有名な観光地。
私はイタリアのローマの路地を歩いていた。
宿を出て
地図を見ながら、
自分がどこにいるのかを見失わないように必死になりながら。
必死なので視野も狭い。
ガイドブックの地図と、でこぼこな石畳。
時折目線を上げて標識の読めない文字の形を確認するくらいだった。
数百メートル歩いただろうか。
感覚的には1~2キロほどあるいた気がする。
ふと、視界が開ける。
路地から広場に出た。
そして、目の前には彫刻と水をたたえた
トレビの泉が広がっていた。
ようやく
ようやくたどり着いた。
ガイドブックで一目見たときから、
一生のうちに一回は行ってみたいと思った場所。
日本の秋田という田舎から
イタリアのローマという都市にある
トレビの泉にたどり着いた。
確かに感動はした。
だが、心が震えてしょうがないとか、
涙があふれて仕方がないとか
そのようなことはなかった。
何というのだろう。
自分は実際に自分の目でトレビの泉を見て、
自分の足でそこに立っているというのに、
何というのだろう。
あまり実感が湧いてこないのだ。
実感の湧かない自分を客観的にみているもう一人の自分もいて、
お前はなんて感動のない、心の貧弱な男なのだとも言っている。
だが、実感が湧かないのでは仕方がない。
だからと言ってこのまま帰るわけにもいかない。
せっかくなので、顔を上げて
泉の周囲を見渡してみる。
泉のそれは、確かに観光ガイドで見たものではあった。
ただ、やはり写真と実物の違いというのはあるものだ。
歴史ある観光地なのだから仕方のない事ではあるが、
汚れというか、リアル感がやたらと目立って見えた。
白磁の彫刻についている、
水が流れて着いたであろう茶色の汚れとか、
泉の底に沈む無数のコインの後ろに見え隠れする、
まるで日本のプールの底のような汚れの一部。
ガイドブックの写真には決して載らないであろうそれらのリアルな光景。
別に非難しているわけではない。
残念に感じたわけでもない。
ただ、自分の予想していた「実感」とは違った、
リアルさを感じる「実感」であったというだけであろう。
むしろ、これとて、
実際にこの地に来て、この目で見なければ
感じ得なかった「実感」なのである。
いかに、自分の「実感」を美化してドラマの様に想像していたかが分かった。
テレビや雑誌越しの体験ではない。
気温や湿度、観光客の喧騒、
足に感じる疲労感と、バッグの擦れた首の痛み。
リアルな視覚、聴覚、皮膚の感覚で感じるローマ。
これこそが、旅行のだいご味なのであろう。
きりたん
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