今回は、明智光秀と本能寺の変について、お話しさせていただきます!

天正10年(1582年)6月2日に、織田信長は警備の手薄な京都の本能寺に来ておりました。

 

その時、明智光秀は、中国地方攻めに苦戦をしていた、豊臣秀吉の援軍に向かうように命じられていました。

 

しかし、自らの兵を用いて向かったのが、本能寺でした。

 

とくに本能寺攻めで有名な言葉が、『敵は本能寺にあり』ですね。

 

でも、この言葉は、なぜかとても寂しい気持ちになります。

 

 

当然、手薄な警備だった本能寺で、光秀が信長を追い詰めるには、いとも簡単なことでした。

 

そして、追い詰められた信長は、家臣に火を放つように命じて、本能寺で自尽したと伝わっております。

 

 

あけびさんによる写真ACからの写真

 

 

その後の光秀は、安土に行きました。

 

そして、京都の公家達は、安土に挨拶をしに来ました。

 

それは何故か?

 

当時は天下をとることが、京都を支配するということだったので、京都の朝廷は、光秀にお願いしますと伝えに来たということです。

 

なので、本能寺の変が終わった後は、少なくとも、京都と公家達は、光秀が次の支配者としての認識をしたので、天下をとったということになったのですね。

 

 

しかし、織田信長に忠誠を誓った明智光秀が、何故?謀反を起こしたのか?

 

これに関しては、色々な説があるみたいです。

 

ある説としては、手薄な本能寺であったのと、一生に一回でも天下をとりたいというのは、誰もが駆られることであって、たまたまチャンスが光秀に巡ってきたというのが実態みたいです。

 

やっぱり、戦国武将をしていると、憧れてしまうのでしょうね。

 

 

 

他には、織田信長は天下人として、常に身の危険を感じていたのか、本能寺で急襲された時に、真っ先にある人物を疑ったと言います。

 

それは、何と!

 

織田信長の実子、信忠でした。

 

なぜなら、この時代は、親族や子供や親であろうと、油断が出来なかったためです。

 

これについては、しっかり信長の言葉として残ってるみたいです。

 

大変な時代ですね。

 

 

 

では、明智光秀はというと、本能寺の変の10日後に、中国地方攻めから戻った羽柴秀吉と織田信長の子、信孝と京都の山崎で戦いました。

 

しかし、圧倒的な兵力を持つ秀吉軍の前に光秀は敗走して、自らの居城、坂本城を目指したのですが、道中の一揆による、農民によって打ちとられてしまいました。

 

その後は、打ちとられた身体を晒されて、秀吉が首塚を作って埋めました。

 

 

 

光秀が天下をおさめたのは、わずか10日、あまりにも短すぎたために、三日天下と揶揄されました。

 

でも、福知山では、お城を築いて、城下町を整備した人物ということで、大変、名君として慕われていたので、江戸時代になってから御霊神社に神様として祀られました。

 

御霊神社への行き方は、JR山陰本線「福知山駅」下車して、北へ徒歩10分のところです。

 

 

明智光秀は、現在でも人の心に語り継がれている、謎多き天下人だったんですね。

 

 

それでは、今回で、明智光秀についてのお話を終わりにさせていただきます。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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美容業界、一筋で頑張っております。ナッツです。 お城や仏閣が大好きで、色々と見学に行っておりますが、 まだまだ、いっぱいありますので、どんどん行きたいです。 そして、本業とは別に、ネットビジネスにもどんどんチャレンジして、 少しでも収入を得て、家族と一緒に美味しい物や贅沢旅行をしたいです。 その為に、現在お世話になっている塾で勉強をさせて頂き、 ブログやリライト技術をしっかり学び、みなさまに有意義な情報を 発信して行きたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

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