鳴門市ドイツ館訪問
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鳴門市ドイツ館では、最近一部の展示物を新しくされたらしいとのことで訪問しました。かなり前の子供のときに訪問したことがありますが、建物は、かなり違っていました。そのときは、木造のドイツ風の家の外観をしていました。
それが、1993年ごろに石造り風の今の建物に建て替えられたそうです。前の建物と比較するとかなり立派な外観でした。
ドイツ館がどのようなものか説明しますと、ドイツ館がある付近に大正時代の1917~1920年の約3年間、第一次世界大戦の日独戦争で日本軍の捕虜となったドイツ兵を収容した坂東俘虜収容所が存在していました。
そこでは、捕虜たちが約1000人居ました。そこでは、捕虜たちの人権を尊重し、自主的な生活が認められていたため、様々な活動を取り組み、ベートーベンの第9交響曲のコンサートをしたり、地域の住民と交流したそうです。そのため坂東俘虜収容所は、模範的な収容所といわれました。
ドイツ館で、ドイツ兵の捕虜達の活動とか地域住民との関わり合ったことなどを展示したものです。
1階には、コンサートとかできる大会議室、小会議室、ドイツ製のお菓子とか雑貨品などを販売しているお土産店ここでドイツ製のネズミのぬいぐるみを買っちゃいました。
他に鳴門市と姉妹都市のリューネブルグとかニーダーザクセン州について展示しています。
大会議室では、コンサートとか講演会とか行なわれたりするそうです。
2階には、ドイツ兵の捕虜達の活動とか地域住民との関わり合ったのことなどを展示していました。
第九シアターでは、第九交響曲の初演奏の逸話などを映像と動く人形で実演されています。第九の曲の短い部分の演奏を7体ぐらいのロボット、一体は、指揮者、6体は演奏者で行なわれます。勿論声とか音楽の音は、録音されたものです。
新しい催しでは、所長であった松江豊寿氏についての資料を展示していました。
因みに、俘虜収容所は、坂東俘虜収容所を含めて、16箇所日本国内にあったようで、合計で4700名ぐらいの捕虜がいたそうです。
最初はお寺などの仮の収容所が12箇所ありましたが、新しく建物を建設して、6箇所に統合しました。青野ヶ原と坂東、久留米、名古屋、習志野、似島です。
各場所によりパン、ケーキ、ワイン、ソーセージ等の技術が地域住民に伝承されました。各場所に慰霊碑があり、収容所についての資料が集められたり、研究されたりされているようです。
ドイツ館ができたいきさつについてですが、第二次世界大戦が終わって1947年に偶然、近くで暮らしていた高橋春枝さんが草に埋もれていた収容所内で亡くなられた11人の捕虜の慰霊碑を見つけ、その慰霊碑ができた理由を知って清掃を始めました。
それを13年続けたとき、それが新聞で紹介されました。そのことをドイツ大使館に知れることとなり、当時の駐日大使ハース氏が慰霊碑に献花し高橋さんに謝意を伝えました。それが、ドイツでも報道され、元ドイツ兵に知ることとなり、再び地元住民と元ドイツ兵との交流が始まりました。
このことから幾つかの偶然が重なってドイツ館ができたり、交流が継続しているのかもしれません。このことから色々学べることがあることがあるかも知れません。皆さんも鳴門に来た時、寄ってみては如何?
写真1 旧ドイツ館の外観
写真2 新ドイツ館の外観
写真6 ドイツ兵慰霊碑
hassy
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へ~~~~ その時代の 捕虜なのに すごく大事にしたんですね ^^
今なら 当たり前ですが 当時は・・・・・
建物も 見ごたえあるし 良いところですね
駐在おやじ