明智光秀は、織田信長の丹波攻めの指揮官として、京都市の北西に位置する亀岡市にやってきました。
そして、丹波を支配するために、亀山城を築きました。
現在の亀山城は、明治の廃城令により解体されておりますが、本丸付近の石垣は、築城当時の状態で残っております。
丹波亀山城跡地への行き方は、JR山陰本線「亀岡駅」を下車して、南に歩いて徒歩10分です。
光秀は、さらに丹波攻めを推し進めるために、亀山城から福知山へと侵攻し、丹波平定を成し遂げました。
そして、かつての領主が構えていた簡素な城を改築して、福知山城を築きました。
でも、福知山城もまた、明治の廃城令により城の大半は失われました。
しかし、昭和61年に市民の多額の寄付で、現在のお城に再建されております。
とっても、いいお城です。
城壁に使われている石垣は、江戸時代の物ですが、天守を支えている石垣は、明智光秀が統治していた戦国時代の物です。
この石垣は、自然な石を使って、一番すわりの良いところで配置をしている、野面積みになっており、石垣の中には、神社・仏閣の境内から持ち込まれた、転用石と呼ばれる石材が多くみられます。
なぜ転用石が多いかと言いますと、急いでお城を築かないといけなかったみたいです。
その他の一説としては、当時、一大勢力を保持していた寺などに対して、光秀は自らの力、城の権威を誇示するために、寺の境内にあった石材を転用石として供出させたと言われています。
福知山城への行き方は、JR山陰本線「福知山駅」を下車して、東へ徒歩15分です。
niboshi-photosさんによる写真ACからの写真
福知山では、毎年夏に行われる、福知山ドッコイセまつりで踊られる福知山音頭は、福知山城の築城時に石材を運ぶ時のかけ声が原点とされております。
その音頭で、今でも名が歌い継がれる明智光秀は、福知山にとっては、とてもいい城主だったみたいです。
そんな光秀の功績のいったんが、天守から見渡す城下町の風景の中にも見られます。
それは、お城から北側を城下町として整備をしたと言われており、その城下町の出前で合流する、東側から流れて来る大きな川から守るために堤防を造りました。
その堤防は、明智藪と呼ばれて、現在もその姿をとどめております。
そして、光秀は戦国武将には珍しい、地子銭(じしせん)と呼ばれる税金を免除したことでも知られています。
ちなみに、地子銭とは、領主が城下町に課した税金です。
税金を免除することによって、庶民の暮らしを豊かにし、その結果、城下町が発展することを見込んでいたということですね。
素晴らしい政治力です。
それでは、明智光秀が築いたお城について、今回はここで終わりです。
次回は、本能寺の変についてお話させていただきます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
nuts
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