久しぶりに行ってきました。小学生の修学旅行以来です。とても楽しみにしており、行きたいところの1つでした。今回はそんな金閣寺を紹介したいと思います。
正式名称は鹿苑寺
正式名称を鹿苑寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つ。舎利殿「金閣」が特に有名なため一般的に金閣寺と呼ばれています。
元は鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘を室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受け、山荘北山殿を造ったのが始まりとされています。
金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世にあらわしたと言われ、有名な一休禅師の父である後小松天皇を招いたり、中国との貿易を盛んにして文化の発展に貢献した舞台で、この時代の文化を特に北山文化といいます。義満の死後、遺言によりお寺となり、夢窓国師を開山とし、義満の法号鹿苑院殿から二字をとって鹿苑寺と名づけられましたそうです。
金閣寺のあゆみ
義満は延文三年(1358)足利二代将軍義詮(ヨシアキラ)を父に、石清水八幡宮検校通清の娘良子を母として生まれ、幼名を春王と呼ばれました。
南北両朝の抗争が相次ぐ康安元年、義満三歳の時、楠正儀、細川清氏らに大挙して京都を攻められ、将軍義詮は近江へ逃れました。義満は従者に抱かれ建仁寺の蘭洲良芳のもとに逃れましたが、良芳和尚は義満に僧衣をかぶせて五日間かくまい、ひそかに播州白旗城の赤松則祐のもとに送り届けました。そして翌年義満は無事京都に帰還しています。
この年父義詮は病没し、翌年義満は十一歳で将軍職を継ぎますが、父の遺言により、管領細川頼之が補佐役として幼君を助け、義満を立派な将軍に育て上げるとともに、幕府の権威の向上に努めました。
十一才で将軍職を継いだ義満は細川頼之の補佐を受けながら、地方の有力な守護大名を制御して将軍としての地位を確立していきました。そして応安四年(1371)室町北小路に造営中の室町第を完成させ、ここに幕府を移します。
何やら難しいですが、金閣寺は義満が建てたものだとばかり思っていましたが違っていたようです。
なかい
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