前回は、黄梅院のご紹介で終わりました。
その後の続きです。
天正十年(1582年) 六月に、数名の家来だけを従えて、手薄の警備で京都の本能寺に滞在をしていた織田信長。
その信長に刃をむけたのは、自らの家臣、明智光秀でした。
そして、窮地に追い込まれた信長は、自ら火を放ち自害をしますが、信長の亡きがらは見つからなかったと伝わっています。
それから、信長の葬儀が行われたのは、およそ100日後で、七日間に渡る葬儀が営まれたのが大徳寺でした。
なぜ、葬儀が営まれたのが大徳寺だったのか?
それは、蓮台野(れんだいの)が近くにあったのが大きな原因みたいです。
さて、蓮台野とは?
船岡山の麓周辺にあった葬送地、いわゆる火葬場ということです。
信長の葬儀を取り仕切ったのは、羽柴秀吉、のちの天下人です。
葬儀から一年後、秀吉は、信長の一周忌法要に間に合わせるために、大徳寺の境内に総見院を建立し菩提寺としました。
総見院の名前は、信長の戒名から取られたものです。
総見院の本堂には、信長の位牌と共に、等身大とされる信長の座像が安置されています。
木造で出来ており、鋭い眼光で往年の信長みたいです。
総見院
総見院に祀られる、信長を始めとする織田家一族の墓碑があります。
そして、秀吉は総見院を信長の墓所と定め、追善仏事を執り行いますが、実は、信長亡きあと、秀吉の天下取りが見え隠れしておりました。
なぜなら、信長の追善仏事を永遠することにより、当時の人々は、信長の後継者だと認める動きになって行きました。
さすが、秀吉ですね!
あとは、総見院の墓地の脇に植えられた、樹齢400年の椿、秀吉がこよなく愛した日本最古の侘助椿(わびすけつばき)、その名は胡蝶侘助(こちょうわびすけ)!
特徴は、花が小さく開き切らないことで知られる椿です。
春の茶室を彩る花、秀吉も好んで差していたかもしれないですね!
最後に、大徳寺の塔頭、興臨院の紹介です。
興臨院は、室町時代後期に創建されました。
創建したのは、能登の戦国武将の畠山義総(はたけやまよしふさ)です。
そして、のちに加賀百万石の大名にまでになる、前田利家と縁を結び、両家の菩提寺となったお寺です。
興臨院
興臨院は、畠山家が滅亡したあとに、前田利家と、お父さんの利春によって復興されました。
興臨院には、畠山家と前田家の墓標があります。
山門をくぐった先には、唐門があり、
その先の奥には花頭窓から方丈庭園を臨むことができます。
枯山水の方丈庭園は、白砂に石組みを取り合わせ、古代中国で仙人が住むと言われた、理想の宝来世界を現わしています。
方丈庭園
興臨院の本堂の横に建てられた茶室、涵虚亭(かんきょてい)があります。
涵虚亭は、戦国大名として活躍し、茶の湯の発展にも寄与した、古田織部ごのみの茶室と言われています。
千利休とともに茶の湯を大成させた戦国大名・茶人・茶器・建築・庭園などで、「織部好み」という流行を生んだみたいです。
それでは、大徳寺のご紹介でした。
最後まで、お読みいただき有り難うございました。
nuts
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