初夏に花開く水色桔梗(みずいろききょう)をこよなく愛した戦国武将がいました。
その武将は、謎多き明智光秀です。
明智光秀は、戦ばかりでなく、城下町をしっかりと発展もさせる実力者で、福知山では名君として慕われ、最終的には神とあがめられて祀られるほどの人物でした。
ただ、歴史上に名前が登場して来るようになったのは、50歳に差し掛かったぐらいみたいです。
以外に遅咲きだったんですね。
ちなみに、光秀は足利義昭の家来だったのです。
ところで、光秀の居城は何処に存在してたかと言いますと、織田信長が重要としていた、滋賀の坂本と言う土地を与えられて、そこに坂本城を築き上げました。
しかし、最終的には資材が必要になり、廃城になってしまいました。
そして、お城の跡地も、琵琶湖の水位が上がり見えなくなってしまっております。
ちょっと寂しいですね。
でも、坂本には明智光秀のゆかりのお寺があります。
それは、琵琶湖が一望できる高台にある、天台真盛宗総本山 西教寺です。
西教字へは、JR湖西線「比叡山坂本駅」または、京阪石山坂本線「坂本比叡山口駅」下車して、江若バスで「西教寺」へ行くといいですよ。
西教寺は、恩師の抗争を弔うために、聖徳太子が創建したお寺です。
そして、不断念仏の道場として、600年の歴史を刻んできました。
不断念仏とは、基本的に毎日の念仏を欠かさない約束という事ですね。
他には、手白猿(てしろましら)の伝説があります!
それは、馬借一揆(ばしゃくいっき)によってたくさんの方が亡くなりました。
ちなみに、馬借一揆とは、物資輸送を生業とする「馬借」が主導した一揆です。
そして、亡くなられた方たちの法要を西教寺で弔いました。
でも、一揆で戦った敵味方を弔ったとして、西教寺の対応に異議を唱えた僧兵が大挙して攻め入ってきました。
そこで、大挙して押し寄せた僧兵に身の危険を感じた西教寺の僧侶達は寺から逃れました。
しかし、誰もいないはずの本堂から、念仏を唱える鐘の音が響いていたと言います。
それはどういう事なのか?
大挙の僧兵たちは、鐘の音がする本堂に押し寄せると、何とそこには、白い手の一匹のお猿が念仏を一心に唱えていたのです。
その姿を見た僧兵たちは、坂本、比叡山一帯の神の使いと言われているお猿さんにまで、お念仏が浸透しているのかと目の当たりにして、静かに立ち去りました。
何とも、不思議な話ですね。
それでは、明智光秀とゆかりについて、今回はここで終わります。
次回、また続きのお話しさせていただきます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
nuts
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