1.ケニア人彼らは何故速いのか?
ケニア人は何故速いのか?というのは使い古された話題です。ということは当然、私の考え方は他の人達とは違うということです。これまで高地トレーニング、遺伝子、ハングリー精神、文化、食事、グループでのトレーニングなど様々な要素が挙げられてきました。先ず、大前提としてそういうものの全てが答えということはおさえておく必要があります。何か一つだけの要素でトップに上り詰められるわけはありません。ハードな練習、スマートな練習、良い睡眠、優れた栄養戦略、自律心、ビジョン、知識、お金、スポンサー、コーチ、コーチや家族、友人との良好な人間関係、そういったものの全てが必要であることは言うまでもありません。今から述べることは、強いて言うならどれですか?という問いに対する答えです。
ハングリー精神があるから強い?
よく彼らはハングリー精神があるから強いと言われます。貧しい家の出身の選手が多いのは事実ですし、プロのランナーになった後も決して裕福とは言えない環境でトレーニングしている選手が多いのも事実です。実際私も7週間ケニアのトレーニングキャンプで風呂無し、洗濯機無し、電子レンジも冷蔵庫もなしという生活を他の4人の選手としていました。それでも彼らは1500mを3分30秒台で走り、数々のロードレースで勝ち、マラソンの自己ベストは2時間8分台、9分台の選手です。そこに到達するまではもっと大変だったのかもしれません。
しかしながら、「彼らは貧困から脱出するために頑張っている、だから苦しい練習に耐えられる、だから成功する」と考えている人は間違いです。換言すれば、「彼らは成功して幸せになりたいから、苦しい練習に耐えられる」と考えている人たちは間違っているということです。
世界中の、誰でも構いませんので、成功者とあなたが考える人を思い浮かべてください。その人たちは短期的にも、長期的にも高い集中力を発揮してきた人たちで、自信のある人たちです。なぜ彼らは、数か月、数年、数十年にわたって同じことを高い集中力を持って続けることが出来るのでしょうか?答えは簡単です。もうそれで充分幸せだからです。幸せだから、一日何時間も、何十時間も高い集中力を発揮し、最大限の能力を発揮しながら、それを何か月、何年、何十年と続けられるわけです。成功するのにかかる時間はあなたが成功をどのように定義し、どの分野に取り組むかに左右されるでしょう。
しかし、忘れてはならないことが一つあります。現在の自分はすでに成功している人間=幸せな人間だと思えない人は自分の能力を最大限に引き出すことはできないということです。ケニア人はハングリー精神があるから強いのではありません。彼らはもう既に幸せだから強いのです。以前の記事でハクナマタタの精神を紹介しました。もう一度述べるとハクナマタタとはスワヒリ語で問題ないという意味です。彼らは人生に多くの問題を抱えています。小さいころから、特に経済的な面で、多くの問題を経験しているのでそれに一つ、二つ問題が増えたところでたいしたことではありません。彼らはその中で幸せになる方法を経験的に知っているのです。それは、音楽と友人や家族と多くの時間を過ごすことです。中南米の人達もそうですが、彼らはヨーロッパの人間によってアフリカから連れてこられた奴隷を祖先に持つ人が多いです。こういった奴隷たちは日々の過酷な労働の中で音楽による楽しみと仲間との会話の中に楽しみを求める人が多かったのです。今でも中南米の野球選手達はのびのびと楽しそうにプレーする傾向にありますが、これにはそういった背景があるのでしょう。イギリスの植民地支配を受けていたケニアも同じような環境にあったことでしょう。
それに加えて高地ということも関係しているでしょう。赤道直下で国土の多くが標高2000mを超えるケニアではとても強い日光を浴びることが出来ます。日光を十分に浴びることはその人の感情に好影響を与えます。強い日光を浴びている地域の人達は明るい気分の人が多いですし、逆に高緯度であまり日光を浴びることが出来ない地域の人達は冬になると季節性情動性障害と呼ばれる鬱や気力、やる気の低下にかかる人が多くなります。
2.幸せになる方法
では私たちが具体的に幸せになるにはどうしたらいいですか?ということが問題になるでしょう。答えは以下の三つです。
- 好きなことをすること
- 好きな人と過ごすこと
- 高い自己有用感を持つこと
1つ目の好きなことをすることですが、意外と自分は何が好きかわからないという人が多いです。そういう人達は今から新しく好きなことを見つけるのではなく、今自分が何に多く時間を使っているか考えてみてください。庭いじりですか?Facebookですか?ツイッターですか?映画鑑賞ですか?仕事ですか?育児ですか?それが何であれ、あなたが現状で多くの時間を費やしているもの、優先的に時間を使っているものがあなたが高い価値を見出しているものです。自分に正直になって考えてみてください。いくらあなたが「自分は仕事人間で、人生の何よりも仕事が大切なんだ」と思っていても、仕事をしているのは会社にいる時だけで、家に帰ったらFacebookでみんなの投稿を観ている時間が一番長いのであれば、あなたが最も価値を見出しているのはFacebookなのです。逆に「自分は愛のある人間で仕事よりも家族が大切だ」と思っていても、いつも率先して遅くまで会社に残り、せっかく休日に家族と遊びに出かけても頭の中は仕事のことばかりという人なら、あなたが価値を見出しているのは家族よりも仕事なのです。
2つ目の好きな人と過ごすことですが、日本語で好きな人、愛する人と書くとすぐに恋人をイメージする人が多いのですが、好きな人というのはあくまでも単純に好きな人です。恋人でも家族でも友人でも先輩でも後輩でも近所のおっちゃんでも誰でもあなたの好きな人です。勿論、一人で過ごすのが好きな人は一人で過ごしてください。声に出すのが怖いだけで恋人がいなくても友達がいなくても幸せだという人は少数ながらいるものです。
3つ目の自己有用感を高める方法ですが、これは以下の三つです。
- アファメーション
- 空観
- 仮観
アファメーションは以前の記事でも述べていますが、自分の目標を言葉によって肯定してくださいねということです。自信は過去に何を成し遂げたかではなく、自分の現状の外側に目標を設定し、自分はそれを達成にするのにふさわしい人間なんだ、自分はそれだけ価値ある人間なんだと思うことです。但し、この時二つの相反する点があります。それはゴールを現状の外側に設定すると、そのゴールを達成する自分を想像しにくくなるということです。しかしながら、ゴールを自分の現状の中には設定しないでください。そうすると無意識のレベルで「じゃあ結局今のままでいいやん」ということになるからです。目標を達成する自分というものを強く思い描くための手段がアファメーションです。自分がどれだけ価値ある人間だという感覚は、「現状では想像しづらいほど高い目標を達成できるくらい俺は凄いんやで」という感覚から来るのであり、過去に何を成し遂げたかは関係ないということを忘れないでください。この時、言葉によって自分に対する価値を高めるのがアファメーションです。
3.空観、仮観とは何か?
さて、今回は私のブログの中で新しい概念が出てきました。空観と仮観です。先ず空とは何かということから説明しましょう。空とは全てを包括し、かつ何物でもないものです。例えば、あなたは誰ですかと聞かれて私がこう答えたらどう思うでしょうか。
「私は、ランナーであり、物書きであり、栄養士であり、社会学者であり、経済学者であり、哲学者であり、倫理学者であり、学校の先生であり、弁護士であり、催眠術師であり、その他すべての存在である」
皆さんは「それって結局誰なん?」と思いませんか。全てであるというのは同時に何者でもないということを意味します。これが空です。空観とは文字通り、空を観ることです。例えば、目の前に靴があります。ランニングシューズです。ランニングシューズは、中敷きとか靴底とか靴ひもとかそういった各パーツの集合体です。そしてその各パーツは分子の集まりで、分子は原子の集まりで、もっと細かく見ると素粒子の集まりです。こうやって、見るとランニングシューズも私と同じ素粒子の集合体にすぎません。水もマグカップもあなたも結局素粒子の集合体という点では同じです。これが小乗の空観です。
別の見方もできます。ランニングシューズを説明してくださいと言われると、ランニングシューズを作った人がいて、運んでくれた人がいて、売った人がいて、買った私がいて、そのそれぞれに親、親せき、兄弟、友人がいて、運んだトラックが合ってトラックの運転手がいてそのトラックを組み立てた人、部品を作った人がいて、組み立てたり、部品を作るときに使った機械を作った人、設計した人がいて、そのそれぞれに親せき、親、友人がいて・・・・という風に一足のランニングシューズについて説明してくださいと言われるとこの地球上のものすべて説明することになります。これが大乗の空観です。
このように考えると、ランニングシューズもまた空なのですが、この世界においてはランニングシューズには仮の役割があります。それこそがランニングシューズとしての役割です。これはあくまでも仮の見方でしかありません。しかしながら、この我々が生きている世界においてはこの仮の見方こそが重要な役割なのです。この仮の見方が仮観です。
皆さん一人一人も同じようなものです。私は弁護士です、私はランナーですと言ったところで、それは仮の見方にしかすぎません。換言すれば、自分を自分で好きなように規定できるということです。だってそうでしょう?水も食べ物も我々には必要不可欠なものですが、それだって結局我々が規定したものです。水というものが独立して存在するわけではなく、我々が水と呼ばれるものに水としての役割を付与したものです。その時水の有用性というものは他の種と共有する必要はありません。我々にとっては水は飲むもの、あらゆるものを洗うもの、農作物を作るのに必要なものなど様々な意味を付与しています。ですが、砂漠なんかにある水がほとんどなくても生きていける植物にとって水の意味はもっと狭いものです。しかしサボテンにとって水の意味がもっと狭く、有用性が低くても私たちはそれに関係なく水の有用性と意味を認めることが出来ます。
これは人でも同じです。皆さんが皆さん自身をどのように規定しようが私には関係のないことであり、私だけではなくすべての他者には関係のないことです。ですから、他人に理解されなくても、電子レンジという仮観、ランニングシューズという仮観、コップという仮観がキリンに理解されなくても関係ないのと同様に、あなたがあなた自身に対する自分はこの世界である有用な役割を演じているという仮観も他人からは独立に意味を持つのです。あなたはあなたが思う形で思うようにあなたの価値を規定してよいのです。
最後に本題に戻りますが、このように空観と仮観を正しく行うことのできる人は幸せなんですよということです。何故なら、自己存在は何物にもとらわれない自由な存在で、価値あるものだと心の底から思えるからです。
池上秀志
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